婚姻届は受理されていた
「翻訳がつくる日本語 ヒロインは「女ことば」を話し続ける」を読んだ
前々から気になっていた。なぜ翻訳の中の女性は「よ、わ、かしら」とかの日常使わない女らしい語尾が使われているのか。男性は「やぁ、○○かい、○○さ」などのキザな話方をするのか。
女言葉は、明治の女学生が使っていた「てよだわ言葉」が元になっている。明治時代に西洋の文学を翻訳する際に、西洋娘の言葉としてハイカラな女学生に使われていた「てよだわ言葉」が採用されて、その翻訳小説を通して「てよだわ言葉」が普及した。
日本人の日常では年配の女性以外で死語と言える女ことばが今も翻訳で使われ続ける理由としてあげられているのは、日本人が持っている女は女ことばを使うものという思いこみが翻訳に影響を与えているということ。そして、長年翻訳の中でヒロインたちは女ことばを使うという常識が共有されつづけた結果、死語になった現代でも翻訳では女ことばを使うことがあたりまえになってしまった。女ことばは西洋の女性らしさと結びついて、日本人の中では使われなくなっても翻訳の中で保存されている。
男性の翻訳における「やぁ、○○かい、○○さ」はなぜ使われているのかは、読んでもわからなかった。「やぁ、○○かい、○○さ」は日本人の中では使われず、あくまで<翻訳版・気さくな男ことば>であって、この言葉には「話しているのは日本人ではない」というメッセージが含まれていることは読みとれた。
でも、昔の邦画を観ると、日本の若者が「やぁ」とか言ってると思うんだけど。「日本人ではない」というメッセージが含まれるようになったのは最近のことなのか?
昔の日本人の中では「やぁ、○○かい、○○さ」式の言葉が日常使われていたのか、翻訳でだけそもそも使われていて、昔の邦画はそれを逆輸入する形で使っていたのか、どっちなんだろ。そこが知りたい。
「ルビー・スパークス」を観た
「(500)日のサマー」が好きなんだけれど、それと似ている(作っているスタジオが同じ?)ということで興味持って観た。
10年前に大ヒット作出したまま2作目が書けない29歳の男性作家が、夢で見た理想の女の子の小説を書きはじめたらその女の子が恋人として現実に現れる。しかも、男性がタイプライター(舞台はiPhoneのある時代だけどタイプライター)で小説の続きを書くと彼女を意のままに変化させることができるのだった。
ヒロインがサブカル男性受けしそうな女の子って点では確かに(500)日のサマーと似ているかも。くそかわいい私もこんな女の子になりたかったよ。デートの日々で浮かれてるシーンが良かった。クラブで踊りながらパンツ脱いじゃったり。ずるい。
意のままに操れる理想の恋人が現れるってストーリーだと、普通に考えたら、自分の思い通りに出来ても現実は上手くいかない、人の心はお互い思う通りに出来ないからこそ世の中は廻るし恋は尊いのだって話になりそうなんだけど、まぁ、本当にそういう話です。
クライマックスが結構オカルト感あって怖かったし、暴力的なまでに嫌悪感じさせられた。オチがちょっと綺麗にまとめすぎだなーぬるいなーって思ったけど、クライマックスの気持ちを中和させるには丁度良かったのかな。